Hidden Profile & Episode

 
 

裏プロフィールとエピソード


1957年12月13日 北海道夕張市にて笹木家の二男として生まれる。

1963年4月 北海道夕張市立第二小学校に入学。

1969年 父親の転職により札幌市に移転。北海道札幌市立元町小学校に転入学。

1970年3月 北海道札幌市立元町小学校卒業。

1970年4月 北海道札幌市立明園中学校入学。

中学2年の頃は喘息のため札幌市立病院に入院。のちに、病院から自宅の近くの中学校に地下鉄とバスで通学するといういっぷう変わった中学時代を過ごす。

当時、札幌市立病院の隣がSTV(札幌テレビ放送)だったこともあって、ラジオ出演にはまる(?)。(葉書とか電話で応募して、「ソニー・ジャスト・イン・サッポロ」や「サンデー・ジャンボ・スペシャル」のササッパラ(故 笹原嘉弘アナウンサー)がやっていた「だじゃれ道場」等に出たりして遊んでいた。)

この頃よりギターに興味を持ち質流れでガットギターを購入、(たしか親にねだって買ってもらったのだと記憶するが、これが定価でいうと一万円くらいの「阿部ガットギター」でいま考えてもなかなかの当たりもので良い音がする楽器だった)吉田拓郎、泉谷しげるなどのフォークソングを聞きコピーをしはじめる。

1972年 中学3年の途中、気管支喘息の為、国立札幌西病院に入院。それと同時に札幌市立山の手養護学校中等部に転入学。

この頃、オリジナル曲を作りはじめ、初めてのコンテスト出場(オリジナル弾き語り)を果たす。コンテストは、その頃フォークシンガーの登竜門番組だったバイタリス・フォークビレッジという番組でSTVホールで予選、なぜか入賞しなかったのにもかかわらず、ラジオ番組(STV放送 たむたむ・たいむ)で連絡も無く勝手にオン・エアされる。はじめての音楽でのラジオ出演?(確か、この時の優勝が大学生の中島みゆきだった。)コンテストに出たときの曲は「岡林信康」のようなタイプの曲(?)だったように記憶する。

1973年3月 札幌市立山の手養護学校中等部卒業。

1973年4月 北海高校入学。

軽音楽部に入部。1年先輩に現在も一緒に仕事をすることがある音楽プロデューサー坂井紀雄氏がいた。(というよりは、その後、東京の音楽関係の仕事に入ったのは私の方が先で、坂井氏が東京で音楽活動をする切っ掛けを作ってしまったのは私の方であった。その話は後で・・・)

この頃から、エレキギターを弾きはじめ、音楽の傾向も洋楽ロックへと移りはじめる。(はじめて買ったエレキ・ギターは「成毛滋のROCK GUITAR METHOD」のおまけで有名な名器として名高い「GRECO EG-360」のGOLDだった。)その頃の流れとしてはエレキギターの第一歩は洋楽のロックのコピーからということで「ディープ・パープル」の「スモーク・オン・ザ・ウォーター」やら「 ザ・ローリング・ストーンズ」の「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」やらからはじまった。

はじめて間もなく何故かまたラジオ出演。まともに演奏もできないのにもかかわらず、当時よく通っていたヤマハの関係で当時のバンドのベーシストがブッキング。スキー場のイベントで無謀な演奏、公共の電波に乗せてしまった。

その後はぱっとした活動もなく、日々部室での練習。年に一度の学祭でのステージと女子高の学祭とかに呼ばれるくらいが発表の場だったような。

高校3年くらいからは札幌はブルースブームでブルースギターに傾倒する。

1976年3月 北海高校卒業。

1976年4月 札幌大学外国語学部ロシア語学科入学。

やはり、軽音楽部に入部。

ここでは、多くの先輩達が「すすきの」のディスコのハコバンなどで演奏していた関係もあって、見事にブラックミュージックの洗礼を受ける。自身も、すすきので演奏したり、ダンパで演奏したりでディスコバンドを経験する。

音楽の傾向は、ROCK、ブルース、クロスオーバー、フュージョン、R&B、ジャズ、ポップス、ニューミュージックへと枠がひろがる。

軽音楽部以外の活動では、ハモンドオルガンの講師の女の人がリーダーをつとめる「キャメルラベル」というバンドにGt.で加入。メンバー構成はOrg.,Dr.,B.,Gt.,Tb.,Vo.という編成だった。Tb.の友人ができた事によりブラスにも興味を持ちはじめる。このバンドで「サウンズ・ウィズ・コーク/フレッシュサウンズコンテスト」北海道大会で優勝。(生まれて初めて新聞に載る。)東日本大会に進出したが『フレッシュじゃないんだよね~』と批評される。 その後、脱退。(というか、ギターの腕が未熟でクビか?)

その後、前述のバンドで一緒だったTb.の紹介で彼もメンバーだった「サンスイテープオーディション」(だったと思う)で全国優勝を果たしていたバンド「B.S.SKY」(ブラス・セクション・スカイ?)の継承バンド「SKY・セッション」に参加。ブラスが中心の当時の札幌ではめずらしいジャズロックやフュージョンをやるバンドだった。このバンドはその後メンバーが就職活動でということだったと思うがLIVEは一度だけで終わった。

1979年 札幌大学在学中に、株式会社ビーイング長戸大幸社長と出会う。一人きりで、いちおうビーイング札幌連絡所として名刺を持ちプロモーション活動を開始する。

その頃、北海道では「ビーイング」所属の「WHY」(織田哲朗、北島健二、長戸秀介が在籍)の曲が、ホクレンのミルクランド北海道のCMで使用されていて、英語詞にもかかわらず、北海道だけでシングル・ベストテンに入っていた。

(しかし、実際のところ、ビーイング札幌連絡所として札幌で出来たことは、わずかなタウン誌などに紹介することくらいであった。ビーイングからは要請しても資料もまったく届かず、何をしていいやらで、まったくの役立たずだったと記憶している。いま思うにビーイングとしては、それほどこちらのことは気にもかけてなかったんじゃないかとも思う。)

長戸大幸氏との出会いの切っ掛けは、それより遡ること2年程前のキーボーディストの難波弘之氏との出会いである。

「金子マリ&バックスバニー」で来札していた難波氏とライブハウスでの初めての出会いがあった。とはいっても、飲んでからんだ程度のことだったが、その2年後、山下達郎氏のコンサートツアーで来札中に札幌のSOUL BAR「言うから」(その後、マスターの田村氏がはじめた全国的に有名だった老舗SOUL BAR「ソウル・ドレッシング」の前身)で偶然また再会。(というか、自分も山下達郎氏のコンサートを見に行った帰りにたまたま同じ店に寄って飲んでいただけなのだが)難波氏に、東京の音楽業界でスタッフの仕事をしたいと話しをしたところ、その約1週間後、長戸氏より直接連絡が入ったのだ。「東京に来てやってみる気ある?」という話に、もちろん二つ返事で「行きます。」と答えたが、大学もあと半年程で卒業という時期だった為、その間は東京と札幌を行ったり来たりという事で札幌連絡所という時期をすごしたというわけだった。


1980年2月 株式会社ビーイング入社。

1980年3月 札幌大学外国語学部ロシア語学科卒業

(順番が逆になっている理由は、卒業試験終わりで卒業が決定する前に東京に出てきてしまったからである。)

株式会社ビーイングは、この頃、社員5名程度。その後、90年代に音楽業界で歴史的ヒットの連続で大ブレイク大成長することとなった。ま、自分はグループ社員が2、30人ほどに膨れ上がってきた頃に辞めちゃったけれど。(副社長に、その後所属した会社である、株式会社パブリック・イメージの社長の月光恵亮氏がいた。直属の上司であった。)最初の所属はキングレコード/ビルボックスレーベルで、このレーベルには、当事、三原順子や、ボーカルが織田哲郎やBOOWYをはじめる前の氷室京介等がボーカルを担当していた「スピニッジパワー」というバンドなどが所属していた。

その後は「ペーパーランド」というセクションに所属。レコーディングスケジュールやミュージシャンのスケジュールの調整や管理をするセクションだった。スケジュール表が今のようにコンピューター中心じゃなくて紙だった為にこのネーミングになったらしい。


株式会社ビーイング入社当時というのは、じつは見習いなのか丁稚奉公なのか何だかわからない状態。毎日会社に出て働いているのだけれど、給料が出る様子が無い。それじゃ生きていけないので夜はアルバイトに出た。現金で当日お金がもらえる市ヶ谷の「大日本印刷」とか、品川の電気部品会社とか夜8時くらいから朝8時くらいまで週4日くらいやっていた。ということで、きっと一週間の睡眠時間は10時間あったかどうか。(まあ、アルバイトをやめてからも睡眠時間は変わらなかったけれど。)そのうち昼の仕事が忙しくなってきて、給料はいつから貰えるか聞いたところ、今は勉強中なので授業料が無いだけいい(?)的な答えが返ってきたので、一日おいてから「自分がいなければ、いま自分がやっていることを誰かを雇ってやらなけりゃいけないでしょう、じゃ、とりあえずそのくらいのお金を出してください。」と言ってみたらその月から給料が出るようになった。当時の音楽業界というのは人気業界のわりにはまだ全体的にむかしのノリで、「修行」なんてことでごまかせるようなそんないいかげんな時代だった。(ちなみに、当時の後輩なんかにそんな話をしたところ、みんな同じようなことになっていたらしい。というか、自分のほうがまだ恵まれていたようだ。)
余談だが、ちなみにこの頃、上司に「楽器を弾いているようじゃスタッフとしてはダメ」と言われてギターは一切弾くのをやめたのだが、それから十数年後にその上司にスタジオで久々に会ったらギター弾きながらアレンジしていたのにはびっくりした。


その後、個々のメンバーがスタジオミュージシャンやプロデューサーとしても活躍していたバンド「MARIAH」(マライア)(清水靖晃-Sax.,Key.、笹路正徳-Key.、土方隆行-Gtr.、山木秀夫-Dr.、渡辺モリオ-Ba.、村川ジミ-聡-Vo.)のアシスタントマネージャーとなり、メンバーそれぞれのマネージメントも担当する。(山木秀夫を除く)(実質的にはマネージャーの仕事全般を担当。)また、それぞれのプロデュースするレコード(阿川泰子、マリーン、亜蘭知子、秋本奈緒美、等)の制作リレーションブッキング、バンドレコード、メンバーソロの制作リレーションブッキングなどを担当する。(これは、当時、本来レコード会社のディレクターの仕事だったが、プロデューサーやミュージシャンのスケジュールが過密だった為、そのマネージャーである自分がすべてやることになっていた。)

当時は、初期のビーイングに於いて結成された[LOUDNESS]、[BOOWY]などの伝説的バンドの活動もサポート。

([BOOWY]の1stアルバムのサウンド・プロデューサーは[MARIAH]のベーシストであった渡辺モリオ。)


ちなみに、この頃の仕事上の名前は『笹本昌志』。3年間だけ、ある事情でこの名前で仕事をしていたのだが、いまだに、この名前で呼ばれることがある。(事情というのは、ただ単に、非常に近い会社関係者に「佐々木」という人がいたので、紛らわしいというだけのことだったのです。)ちなみにほんのちょっとの間だったが「釜谷言三」(かまたにいうぞう)なんて名前も使ったことがあった。

(東京に来てからはしばらくは住むところが決まっておらず、最初の頃は、桑沢デザインスクールに通っていた高校時代の友人の四谷三丁目の部屋に居候をしていた。その後は、その頃ビーイングがあった六本木のオフィスの裏にあったビルボックス・レーベルの部屋に寝泊まり。そして、その後は見るに見かねた長戸大幸社長が自分が所有していた六本木の交差点のすぐそばにある「後藤花店」の上にあった部屋に、そこに保管してあったアンティークの家具を磨いて掃除をするということを条件に住まわせてもらうことになった。そしてその後しばらくしてから、ビーイングの先輩が引っ越すということでそのあとに入居することとなり、「西麻布」にはじめての正式な自分の住居を持つことができた。そこに至るまでは半年以上はかかったように記憶する。)
この3年間で音楽業界で生きていくための知識など得たものは多かった。
家のない会社に寝泊まりしている頃には片っ端からマル秘の契約書などを理解するまで読みまくる日々だった。
そんなことも出来たゆるい時代だった。


1983年 MARIAHと共にマライアプロジェクトとして株式会社ビーイングから独立。(ビーイング時代から一緒にやってきた孫田友樹氏とエンジニアの小野誠彦(オノ・セイゲン)氏も一緒だった。) 仕事は引き続き、制作及びマネージメント業務 。


その後、笹路正徳と土方隆行とが新バンド結成の話がありVo.とB.を探す事になる。 そこで、その頃、まだ札幌で活動していた高校時代の先輩でもある坂井紀雄氏を推選。メンバーからの何度かの説得の末、坂井紀雄上京、B.とVo.を担当する事になりバンド「NAZCA」[ナスカ]結成となる。

(当時のエピソードとしては、実際見たことがない「坂井紀雄」を見てみようということで、笹路正徳と当時のソニーのディレクターだったマイケル河合と一緒に札幌のバンドでコンテストで勝ち抜いてきた坂井紀雄のバンドを「合歓の郷」まで見に行って、そのコンテストの審査員室まで乗り込んだという話もある。もちろん審査員は皆知り合いの有名ミュージシャンたちだった。)


その後マライアプロジェクトは、株式会社イストミュージックと改名。ビーイング時代自分よりちょっと遅れてビーイングに入社し一緒に仕事をしていた上司でもあった孫田友樹氏とプロデューサーの生田朗氏と会社設立。代表取締役就任。

(実は、この会社は、その後に舞台演出家宮本亜門氏やシャンソン歌手のクミコや作詞家の松本隆氏などのマネージメントプロダクションをやることになった旧友の平栗敬史氏の所有していた法人を譲ってもらってはじめたのである。)

「MARIAH」はその後、ある事情によりバンドとしては最後の録音作品をゲストヴォーカルで録音するなどの経過を経て個々の活動中心となる。


その後、自分の発言を原因とする問題で、話し合いの結果、清水靖晃との仕事関係解消。

1985年 「MARIAH」バンド活動停止により株式会社イストミュージック活動休止。
音楽業界に入ってメインのマネージャーとして関わったミュージシャンとの初めての別れだった。
JAZZ業界もPOPS業界も垣根を越えたMARIAHのメンバーの活動がその後の自分の活動には本当にプラスになった。
特に、レコーディングやステージでメンバーがお世話になった吉田美奈子の制作チームや渡辺香津美のKAZUMI BANDの制作チームなどは深く関わらせていただいて感謝している。


その後、自分はフリーのマネージメント、レコーディングディレクターとして活動開始する。


スターシップ・スタジオがエンジニアスクールを開設するということで、前述の孫田氏がその頃運営を任されていたスターシップスタジオ(現在パワーハウススタジオ)に勤務。仕事内容が合わず2ヶ月ほどで退社。


再び、フリーのマネージメント、レコーディングディレクターとして活動開始。

その後、一時期、赤坂にあるコンピュータ・グラフィックスの会社に企画及び音楽担当として所属するが、じつは当時CG関係のことにはまったく知識がなく、バブル前夜のような時代で国技館クラスの大きな会場を貸し切りでやったりする派手な会社イベントとかの開会式につかう5分ほどの一部CG使用のビデオの制作をやったり。それを映写する為の映写機とスクリーンをレンタルする会社の代理店業務のようなことをやっていた。

その後、清水三恵子(Vo.,Key.作詞、作曲、編曲)、YUKARIE(Sax.)、塚田のび太(Key.,Arr.,)等のアーティストのマネージメントを開始。

再び、株式会社イストミュージックを再開する。

YUKARIEは元タンゴヨーロッパというバンドで一緒だった是沢ジュンと「YOSHIWARA」というバンドを結成し、ミュージシャンも棚沢雅樹(Dr.)、横山英則(Ba)というメンバーで動き始めるところだったが、「六本木インクスティック」での1度きりのLIVEで残念ながらその後の活動はなかった。
時期は前後するかもしれないけれど、コロムビアの主催する音楽オーディションやパルコの主催する音楽オーディションなどオーディションの仕事も多くやっていた記憶。


YUKARIEが参加するようになったことをきっかけに、当時インディーズのバンドとしては異彩を放っていたカリスマ的な人気のバンド「JAGATARA」(ジャガタラ)と関わるようになる。

この頃、棚沢雅樹(Dr.)の紹介でその後しばらく遊びも仕事も共にすることとなる当時スタッフギャングに在籍をしていた河辺雪郎(2012年夏死去)との出会いがあった。
三上博史との出会いもこの棚沢と河辺との遊びのなかでだった。

その後、放送作家の町山広美氏からの依頼で実現したフジテレビのライヴ音楽番組「ライヴ・ジャック」への「JAGATARA」(ジャガタラ)の出演あたりから「JAGATARA」のマネージメント及びレコーディング・ディレクターを手掛けることとなる。

そして、コンサートの打ち上げで松竹谷清と出会い「JAGATARA」のなかの二人のメンバーが重複して参加していた松竹谷清のバンド「TOMATOS」(トマトス)のマネージメント、レコーディング・ディレクター等も手掛ることとなる。(不思議な縁で、偶然だが松竹谷清は札幌出身でなんと北海高校時代の英語の先生の息子だった。同じ年齢だが札幌時代には会ったことがなく、知人関係はダブっていたので会わなかったのが不思議なくらいだった。)

また、この「JAGATARA」と「TOMATOS」、そして「MUTE BEAT」、「SKEN & HOT BONBONS」が主催する伝説的なイベント「TOKYO SOY SAUCE」(東京ソイソース)の制作にも参加する。


(「JAGATARA」は12人編成のFUNKバンドで3人のブラスセクションをかかえていた。「TOMATOS」も「MUTE BEAT」と一緒に演奏する機会があったり、大学時代にやっていたバンドから、なぜか、ブラスに縁があるようだ。この業界に入ってからも、清水靖晃(Sax.)を筆頭に、YUKARIE(Sax.)、村田陽一(Tb.)、SOLID BRASS等のマネージメントを経験した。管楽器とは不思議な縁を感じる。)


1987年 俳優「三上博史」の音楽制作及び、音楽面でのマネージャーを株式会社スタッフギャングより正式に依頼を受け開始する。

「JAGATARA」(ジャガタラ)とはメジャー・レーベル選考の考え方が一致せず、約3年間ほどつづいたマネージメント及びレコーディング・ディレクターの関係を終了。

(その後、90年以降「JAGATARA」はVo.のアケミ、Bassのナベチャン、Saxのシノチャンと次々とメンバーのうち3人が他界。Bassのナベチャンは「TOMATOS」のメンバーでもあり、のち解散することとなった。)


1988年 株式会社スタッフギャング入社。この会社はコンサート制作を主としてきた会社ということもありコンサートの制作も多く担当することとなる。 玉置浩二ソロツアー、アマゾンズ、富樫明生(mcA.T)等のコンサート制作を担当。

とくに玉置浩二の1988ソロ全国ツアーでは舞台監督や楽器担当なども兼任する重責務で大ホールの北京公演や武道館公演はさすがにレギュラー陣のスタッフに下駄を預けることになったが仕事内容で充実の時期をすごした。


1989年 この年より楠瀬誠志郎のマネージメント及び、レコーディングディレクターを開始する。

引き続き三上博史の音楽マネージメントと、レコーディングディレクターおよび、数名のレコーディングスタジオミュージシャン、ツアーサポートミュージシャン(YUKARIE-Sax、村田陽一-Tb、西園まり-Gt、三浦憲和-Comp,Syn、等)のマネージメントも手掛ける。

マネージメントを引き受けていたミュージシャンたちのそれぞれの活動も多岐にわたり数多くのアーティストの現場に携わることとなる。この時代、凄腕の美形女性ミュージシャンはまだ世に少なく、二人の凄腕美形女性ミュージシャンを抱えているだけでもマネージメントとして特色のある活動ができた。

また、村田陽一に関しては「SOLID BRASS」のアルバムにレコーディング・ディレクターとしても参加。また、「SOLID BRASS」はスタジオワークのホーン・セクションとしても業界や音楽ファンから注目をあび、ニューヨークでの「SWEET BASIL」と「BRASS CONFERENCE」でのLIVEも敢行。


この後、1992年には、楠瀬誠志郎、三上博史(本城裕二という役名でのリリース)ともシングル・セールスがオリコン週間チャート最高位6位と3位を記録。


この頃、YUKARIEに関して、参加していたバンド「THE THRILL」に専念するとのことで長く続いたマネージメント関係を解消することとなる。


1993年 楠瀬誠志郎に関してはマネージメント業務を退き、レコーディングディレクターとしての活動に移行する。


1994年2月 宮本亜門演出サイケ歌舞伎「月食」の音楽制作を担当。(音楽監督:ホッピー神山)


5月 奈良東大寺境内における国際音楽イベント「あおによしG.M.E'94」The Great Music Experience(ボブ・ディラン、ジョン・ボン・ジョヴィ、リッチー・サンボラ、インネクセス[INXS]、ジョニ・ミッチェル、ライ・クーダー、チーフタンズ、マイケル・ケイメン、ジョージ・マーチン、ウェイン・ショーター、ロジャー・テイラー、キャラ・バトラー、ジム・ケルトナー、レイ・クーパー、エドワード・シェアマー、フィル・パルマー、ピノ・パラディー、ウィクス・ウィケンズ、劉宏軍(天平楽府)、レナード衛藤、布袋寅泰、X-JAPAN、YOSHIKI、玉置浩二、近藤等則、喜納昌吉等が参加)に、プロダクション・コーディネート、リハーサル・マネージャーとして参加する(全世界放映)。

実は、この仕事、英語が必須のような仕事内容。全く英語のできない自分ではあったが、「PINK FLOYD」(ピンク・フロイド)の「ROGER WATERS」(ロジャー・ウォーターズ)のコンサート「THE WALL / LIVE IN BERLIN」やテレビ・プログラムとしても世界的に有名な「ネルソン・マンデラ70歳記念コンサート」(1988.ロンドン・ウェンブリー・スタジアム)のプロデューサーでもあったイギリス人プロデューサー「TONY HOLLINGSWORTH」(トニー・ホリングスワース)氏とその通訳の加藤女史との人間関係にも恵まれて良いポジションで親しく仕事ができて難を逃れた。

外人スタッフもマイケル・ジャクソンのステージディレクターやら超一流のスタッフのなかで緊張の連続だった。

(この全世界放映のビデオのスタッフ・ロールのクレジットでは外国人チームの中のPRODUCTION COORDINATERとして唯一の日本人スタッフとしてクレジットされている。)
ボブ・ディランの弾くギターを手配したり、ジョニ・ミッチェルやライ・クーダーを長谷寺に引率したり、プロデューサーのトニー・ホリングスワースと日々話をしたりと仕事としては苦しくとも光栄な日々だった。


6月 株式会社スタッフギャング退社。

(これは、楠瀬誠志郎の次回作の制作に関してプロデュースの約束があったが大人の問題(?)によりディレクターに留まることになったことが原因である自主退社。)


8月 株式会社スタッフギャングからの依頼でフリーのディレクターとして楠瀬誠志郎のアルバムを制作。


1995年1月 株式会社ビーイング時代の後輩である岡本健志氏と再会、当時、岡本氏が副社長をつとめていた、やはりビーイング時代の上司でもある月光恵亮氏が代表の会社、株式会社パブリック・イメージに入社することとなる。(株式会社パブリック・イメージは当時ヒット曲を連発していたLINDBERG(リンドバーグ)、ZIGGY(ジギー)、田村直美(PEARL)などをかかえるROCK系のプロダクションで、恵比寿に自社ビルを持ち、その地下にレコーディングスタジオを有する、音楽制作プロダクションとしても年間相当数の音源制作をかかえるトップクラスのプロダクションだった。)


4月 株式会社パブリック・イメージ制作部チーフ就任。

ここから約10年近く、平日はスーツ・ネクタイの会社生活をすごすこととなる。

(ディレクターとして入社のはずだったのが、入社してみるとすでに部下のディレクターが4~5人いて、そのディレクターの指導、月光恵亮代表プロデューサーのサポート、予算管理、クライアントとの折衝などが主な役割だった。)


1998年7月 株式会社パブリック・イメージ制作部部長就任。 (役職は上がり仕事の範囲はひろがるが、実際音楽を作る現場からは離れつつある自分の立ち位置に不安を抱いた時代でもあった。)


1999年11月 株式会社アンダーグラウンド・リベレーション・フォース取締役兼任。 (株式会社サミーとの業務提携によりできたレコード会社。実際には会議出席と月光恵亮代表プロデューサーの制作サポートが主な仕事。)


2001年2月 株式会社アンダーグラウンド・リベレーション・フォース取締役退任。 (株式会社サミーとの業務提携の解消とともに退任。)


2003年 引続き、株式会社パブリック・イメージ制作部部長をつとめる。(会社形態が複雑になり、より会社全体の仕事に関わるようになる。)


2004年 株式会社パブリック・イメージが社名変更。株式会社ネクスターコーポレーションとなる。組織変更により、制作運営部長に就任。(当時、GLAYやX-JAPANなどを有していた株式会社アンリミテッド・グループとの業務提携による社名変更及び組織変更だった。)


2004年10月 株式会社ネクスターコーポレーション退社。


2004年~2005年 仕事に追われた日々から解放され遊びと旅行に明け暮れる。

(その後、退社した株式会社ネクスターコーポレーションは代表も変わったが、X-JAPANのYOSHIKIがギャランティの未払い等の件で株式会社ネクスターコーポレーションを訴えたことがニュースになり、当時からプロフィールを公開していてそのなかに退社した会社名が書いてあったため検索に引っかかり、ネット上で知らないうちにYOSHIKIのファンに「YOSHIKIが訴えたのはこの人?」という勘違いを書かれ、あちこちから連絡がくるという被害を被ったという笑い話(?)もある。)


2005年 新会社設立の準備に入る。


2005年8月 株式会社イスト・プロデュース・アンド・コーディネート設立。音楽制作を主にコンサート制作、自社レーベル、音楽に関するコンサルタンツ業務、マネージメント業務をスタート。

(一時、以前関わっていたアーティスト三上博史の音楽制作に関わって所属事務所にデスクを置くが、当時人気を博していたロック・ミュージカル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」関連のCD制作のサポートと本人の自主制作アルバムのコンサートツアーのサポートのみで終了し、やはり新たな活動に切り替えることに。)

その後は、自社レーベル「istpac」でのCDリリースをはじめ、レコーディングのプロダクションコーディネート業、 また音楽とはまったく関係のない会社のコンサルティング(相談役)や、 ウェブコンテンツの制作、フリーランスのミュージシャンやスタッフ等の請求代理業などと何でもやる試行錯誤の仕事の日々を送る。


2008年6月 株式会社ニッポン放送内にて任天堂DSソフト「大合奏!バンドブラザーズDX」事務局運営、事務局長業務をスタート。(ここでは、ゲームユーザーが制作・投稿した音楽の審査、また権利問題がクリアされているか等のチェックを主な業務とする。)


7月 株式会社イスト・プロデュース・アンド・コーディネートの自社レーベル「istpac」レーベルより1991年の幻のレゲエ・セッションとして伝説化されていた「1991 TOKYO × JAMAICA SUMMIT / TIME IS NOW」(吉田美奈子プロデュース、スライ&ロビー、マイケル・ローズ、清水靖晃等が参加)を原盤権利を取得してインディーズにて初リリース。


2010年5月 引き続き、株式会社イスト・プロデュース・アンド・コーディネートの運営及び、ニッポン放送内での任天堂DS「大合奏!バンドブラザーズDX」事務局の運営、事務局長業務を兼務。(任天堂DS「大合奏!バンドブラザーズDX」が「Jam with The Band」のタイトルでヨーロッパでもリリースされることとなり一部そのサポートも兼務。)


6月 2008年より断続的にはじめていた音楽プロデューサー月光恵亮氏の音楽制作業務に関して、あらためて正式に継続的に制作管理業務に関わることとなる。(2012年9月業務提携終了)


2013年6月 引き続き、株式会社イスト・プロデュース・アンド・コーディネートの運営及び、ニッポン放送内での任天堂DS「大合奏!バンドブラザーズDX」事務局の運営、事務局長業務を兼務。


2013年10月 準備をつづけていた任天堂DS「大合奏!バンドブラザーズDX」の後継ソフト任天堂3DS「大合奏!バンドブラザーズP」の発売日が2013年11月14日発売と発表される。


2013年11月14日 任天堂3DS「大合奏バンドブラザーズP」発売。

引き続きニッポン放送内で任天堂3DS「大合奏!バンドブラザーズP」事務局の運営、事務局長業務を兼務。


2015年12月 以前より考えていた札幌移住への思いを現実化するべく計画。 


2016年1月31日 8年間続けた任天堂「大合奏!バンドブラザーズ」シリーズの事務局の運営業務、事務局長業務を退任。


2016年4月20日 東京を離れ、36年間離れていた札幌に移住。


2016年4月20日 株式会社イスト・プロデュース・アンド・コーディネート札幌移転。


2016年8月31日 株式会社イスト・プロデュース・アンド・コーディネート解散。


2016年9月1日 札幌移住とともに生活を一新、エンタテインメント業界での活動を終了。

2017年1月 札幌市内の某所にて今までに全く経験のない職種の業務に従事。
思いあって紹介など一切無しで今までとは異業種の職に就こうと仕事を探し始めたが気がつけば就職活動8ヶ月を経過し書類選考45社目での採用だった。
決まらなかった原因を予測するに、まず60歳近いという年齢、そして前職が音楽関係だったこと、そしてもうひとつが会社の経営者だったこと。
何故こんなに書類選考だけで面接にまでも残らないのかと色々な人に相談、それこそ人事担当をしている人にも聞いて見たところ、その話の中で予測されるのが前述の3点だった。
業界がどうあれ日本の定年退職後の就職はなかなか困難であることを実感。

この仕事が終了したあかつきにはススキノの隅っこで小さなバーでもやろうかと密かに新たな計画を練る日々。


2018年1月 新たな仕事に就いて1年、仕事にも慣れそれほど悩むこともなく毎日を過ごしていたが突如として円形脱毛症が発症。まあ、ひとつなら隠せると簡単に考えていたら毎日抜け続けて多発性円形脱毛症に、そしてあっという間に頭の毛はまばらになった。
どのくらいで完治するものなのかも判らないので経過を「円形脱毛の記録」として残すことにした。